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無一文からの逆転劇。        カーネル・サンダースを成功に導いた秘訣とは?


カーネル・サンダースがケンタッキーフライドチキン(以下、KFC)を正式に立ち上げたのは65歳のとき。普通ならば引退してもおかしくない年齢です。しかもそのときカーネルは、事業を整理して借金を返済したため無一文でした。店頭で見かけるカーネル立像の朗らかな風貌からは想像できないほど、様々な逆境を乗り越えてきたカーネル。
今回はそんなカーネルの波瀾万丈の人生を追ってみましょう!

カーネル少年、わずか11歳でビジネスを学ぶ

1890年、インディアナ州の南にある小さな街、ヘンリービルで生まれたカーネル。5歳のときに父親を亡くし、母は女手ひとつで3人の子どもを育てていました。

写真右上がカーネル(当時7歳)

10歳になったカーネルは農場に住み込みで働き始めますが、幼すぎて仕事に身が入らず、たった一か月でクビに。
自宅に戻ったカーネルは母から「仕事で大切なのは、ベストを尽くすこと」と教えられます。これは生涯を通じてカーネルの座右の銘となりました。

翌年新たな農場で働くことになったカーネルは、朝4時から夜10時すぎまで、懸命に働き、農場主から褒められます。
「できることは全てやる、やるなら最善を尽くす」
カーネルは、わずか11歳のときにビジネスの根幹を学んでいたのです。

カーネル34歳。全財産を失った後、全米No.1セールスマンに

農場の仕事を辞めたあと、カーネルは路面電車の仕事や軍隊入隊、鍛冶師見習い、機関士、弁護士実習生、保線作業員、保険のセールスマン、フェリー運航会社の設立、商工会議所の秘書とめまぐるしく職を変えます。その間に結婚をし、子どもにも恵まれます。

1907年~1915年にかけて鉄道作業員として働いていた

そして31歳になったカーネルはガスライトの製造会社を立ち上げました。
当時はまだ電気がなく石油ランプで暮らしていた時代、ガスライトは画期的に見えましたが、同じ時期に電気ライトが登場。カーネルはそのライバルに押され、全財産を失ってしまいます。

それでもすぐに気持ちを切り替えられるのが、カーネルのすごいところ。
保険の営業経験があったカーネルはミシュラン・タイヤの営業マンになり、すぐに全米1位の売り上げを誇るセールスマンに上り詰めます。順風満帆かと思われましたが、この仕事もわずか一年半である事故をきっかけに終わりを迎えます。

カーネル36歳。橋から転落し九死に一生を得る

1926年、カーネル36歳のこと。ある朝エンジンがかからないクルマを、もう一台のクルマで牽引して吊橋を通った瞬間、吊橋のロープが切れてクルマごと橋の下に転落。頭部の裂傷と腕の骨折、打撲と重傷を負ってしまいます。

この事故をきっかけにカーネルはミシュランを退社。ミシュラン側は優秀なセールスマンを失いたくないため復職を望んだそうですが、カーネルはこの提案を断り再び無職になります。

カーネル37歳。ヒッチハイクで運命の出会い

回復したカーネルは再び職探しを始めますが、クルマがないためヒッチハイクで大都市に向かうことにします。このときにカーネルを拾ってくれたのが、スタンダード石油の支配人。2人はクルマのなかで意気投合し、カーネルはサービス・ステーション(ガソリンスタンド)の経営をしないかと持ちかけられます。これが、伝説のサービス・ステーションの始まりです。

他店の売り上げの3倍を誇る伝説のサービス・ステーション

カーネルはサービス・ステーションの経営でこれまでの経験と知恵をフルに活かします。窓拭きサービスに加え、ラジエーターに水を入れ、タイヤの空気を点検し、少ないようだったら無料で空気を入れて、最後に車内のマットの泥を掃除する。当時そんなサービスを提供するサービス・ステーションは稀だったためすぐに話題となり、多くの顧客を獲得します。

1930年にケンタッキー州コービンに開いたガソリンスタンド「サンダース・サービステーション」※サービステーションはカーネルの造語

さらに他の店舗より2時間早い朝5時からの早朝営業やタイヤのパンク修理も始めたため、カーネルの労働時間は朝5時から深夜2時にまで及ぶこともあったとか。その分、売り上げは他店の3倍に達し、のちにカーネルは「ハードワークは割に合うということを証明した」と語っています。

カーネル39歳。再び無職になる

好調に見えたカーネルの事業ですが、1929年10月24日、世界恐慌の発端となった暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー)は、カーネルの事業にも影響を及ぼします。カーネルはサービス・ステーションの経営から撤退し、またまた無職に。まさにジェットコースターのような人生です。

カーネル40歳。本業のかたわらレストラン事業をスタート

カーネルがサービス・ステーションを閉めたという噂はたちまちライバルの石油会社の耳に届き、新たなサービス・ステーションの経営を打診されます。カーネルはこの誘いを受け再びサービス・ステーションを経営するとともに、以前では提供していなかった新たなサービスを取り入れました。
それがレストラン事業です。
これまでもお客さまから「おいしいレストランはないか」とよく聞かれていたのですが、近くにはあまり良いレストランはありませんでした。
「ならば、ここで食事を提供しようじゃないか!」カーネルはそうひらめいたのです。

実はカーネルは大の料理好き。7歳のとき、初めて焼いたパンが上手にできたので、弟と妹を連れて5km離れた母の働く工場にパンを届けたところ、母も工場の女性たちも大絶賛。カーネルは料理で人をしあわせにできることを体験として知っていました。

レストランでは、その日に手に入る新鮮な野菜や肉を使って料理をつくり、テーブルに並べます。お客さまは旬の食材を使った料理が食べられ、しかもメニューは日替わりで飽きることがありません。ガソリンスタンドとレストランの相乗効果で店はますます繁盛しました。

カーネル42歳。初めてフライドチキンを提供する

翌年、カーネルはさらに店舗を広げ、好調のレストランを拡張します。
そこで提供したのがあのメニュー。そう、ここでようやくフライドチキンの登場です。母の味をもとにつくったフライドチキンにマッシュポテト、
グレイビーソース、焼きたてのビスケットと新鮮な野菜を付けて提供すると、クチコミで評判が広がり大盛況。当時のカーネルはこのフライドチキンが後の自分の人生を大きく変えるとは、知るよしもありませんでした。

カーネル47歳。モーテルをオープンするも2年後に火災で全焼

絶好調だったカーネルは1937年、モーテル(ホテル)、「サンダース・コート&カフェ」を開業します。きめ細やかなサービスと自慢の食事で人気を集め、2年後には2軒目「サンダース・コート・イン」をオープンします。しかし1939年11月、1軒目のモーテルが火事で全焼。現場に向かうカーネルの頭は再建方法や資金繰りのことでいっぱいです。しかし翌朝現場に到着したときには、既に方針を固めていました。「レストランは事業の要、レストランを再建しよう」その日の午後には資材を発注し、新たなスタートを切っていたのです。

圧力鍋との出会いと秘伝のレシピの完成

1939年頃カーネルは圧力鍋に出会います。この圧力鍋の威力にはカーネルも驚きました。豆の煮込みがあっという間に完成するのです。さらに研究を重ね、これまで30分以上かかっていたフライドチキンの調理もわずか7分半に短縮することに成功しました。

1940年頃のサンダースコート&カフェ

そして1940年、11種類のハーブ&スパイス圧力鍋を使った秘伝のレシピが完成しました。11種類のハーブ&スパイスを配合した秘伝のスパイスは
“イレブン・スパイス”と呼ばれ、現在のKFCにも受け継がれています。
このスパイスの開発には10年もかかったのだそう。

カーネル65歳。レストランを売却し、無一文になる

レストランは繁盛していましたが、新たな道路が完成したことで、カーネルのレストランはドライブの主ルートからはずれ、客足が大幅に遠のいてしまいました。新しい道路の完成後、一年たっても事態は悪くなる一方。
カーネルは二十年以上続けたレストランを泣く泣く売却することにします。
しかし、税金の支払いのために借りた借金を返すとカーネルの手元にはなにも残りません。65歳でまたもや無一文になったのです。

クルマの中で寝泊まりし、1,010回目の営業で契約を獲得

何もかも失ってしまったカーネル。失意のなか、ある日友人で料理人のピート・ハーマンにフライドチキンを振る舞います。するとこれが大好評。
ピートはフライドチキンを自分の店のメニューに加えたいとカーネルに提案し、「ケンタッキーフライドチキン」と後に命名して売り出します。
1952年、いわゆるフランチャイズ店第一号の誕生です。
同時にカーネルは、自分に唯一残されたのは、フライドチキンのレシピだということに気づきます。クルマにスパイスと圧力鍋を積みこんだカーネルは、クルマで寝泊まりしながら全米のレストランにケンタッキーフライドチキンを売り込みました。そして1,010回目にしてようやく最初の契約が獲得できたのです。

最初にフランチャイズ契約を結んだピート・ハーマンとともに

8年で600店舗に拡大。亡くなるまで世界を駆け回る

クルマでの移動が増え、テイクアウト需要が生まれたことでKFCの人気は加速し、1955年にケンタッキーフライドチキンコーポレーションを設立した後わずか8年で店舗数は600店に増えました。1964年、カーネルは経営を譲りましたが、最前線を退いたわけではありません。
亡くなる直前までKFC親善大使を務め、世界中を走り回って普及に努めました。日本には1972年、1978年、1980年の3回訪れました。
日本のKFCはカーネルの指導した調理法を正確に守っていたためとくにお気に入りだったとか。

1980年12月16日、90歳でこの世を去ったカーネル。
当時、多くの人々がカーネルに別れを告げに訪れました。

どん底からでも這い上がる、不屈の精神の根底にあるものとは

想像を絶する波乱に満ちたカーネルの生涯、いかがだったでしょうか。普通の人ならくじけてしまいそうな事故や危機に見舞われつつも、前を向き突き進むカーネル。その姿勢は10歳のときに母から教えられた「できることは全てやる。やるなら最善を尽くす」という信念に象徴されています。
そのカーネルのこだわりと想いとともに広まったKFCは、現在世界150以上の国と地域に2万9,000以上の店舗を構え、今日も人々においしさとしあわせを届けています。


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